時代とともに進化を続けるアンダーデザインの歩み

日本の電話事業の発展のため、アンダーデザインの前身である旭電気が設立されたのは、まだ戦後まもない頃でした。それ以来私たちは、電話設備工事業を軸にしながら、情報通信技術の進化と歩調を合わせ、70年以上にわたって社会への貢献を続けています。

1949–1969

電話交換機の工事業を軸に、アンダーデザインの前身となる旭電気株式会社が創業したのは1949年。戦後からの復興期だった当時の日本経済は1950年から始まった朝鮮戦争の特需景気で活気づき、やがて高度成長期に突入します。大手企業や百貨店などの通信設備の整備・改修、増設などが相次いだ時代に私たちは昼夜問わず仕事に従事し、日本経済の発展をインフラの側面から支えました。ラジオやテレビ、洗濯機、冷蔵庫などの家電ブームを背景に、当時の旭電気では家電商品の販売をスタート。さらに電子管やトランジスターダイオードなど電子部品販売にも乗り出すなど、本業の設備工事以外にも事業拡大を図った時代でした。

1949 旭電気株式会社として会社設立(大阪市松屋町)
1950 4号自動式卓上電話機(黒電話)が登場
1952 日本電信電話公社設立
1953 NEC日本電気(株)と販売店契約を締結
国際電信電話株式会社(KDD)設立
NHKテレビ、民間テレビ放送開始
1960 カラーテレビ本放送開始
1962 本社ビル新築(大阪市中央区北久宝寺町)
1963 有線放送設備受注、日本電気工事からの下請け工事
日米間の衛星中継に成功。ケネディ大統領暗殺のニュースが流れる。
1964 名古屋支店開設
東京オリンピック開催
1968 GNPで日本がアメリカに次ぐ2位に
1969 プッシュホン電話機が登場
は社会、情報通信分野の歴史

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松田清治さん
在籍:1962年–2011年(勤続49年)
職種:施工
最終キャリア:アイネットテクノ社長

私が入社した頃は大手企業などに電話交換台がズラッと並んでいるような時代で、交換手の方たちと話をしながら配線工事をする仕事に従事していました。高度成長の時代だったこともあり、百貨店や商社など大手企業の仕事で休みなく働いていましたが、自分で設計した配線システムが実際に動き始めるのを見るのは楽しかったですね。国際交換機の仕事で海外に行く機会も多く、革命中の国でゲリラの検問をくぐり抜けて仕事をしたこともいまでは良い思い出ですし、通信システムが整っていない国に貢献することへの使命感がありましたね。

私が入社した頃は大手企業などに電話交換台がズラッと並んでいるような時代で、交換手の方たちと話をしながら配線工事をする仕事に従事していました。高度成長の時代だったこともあり、百貨店や商社など大手企業の仕事で休みなく働いていましたが、自分で設計した配線システムが実際に動き始めるのを見るのは楽しかったですね。国際交換機の仕事で海外に行く機会も多く、革命中の国でゲリラの検問をくぐり抜けて仕事をしたこともいまでは良い思い出ですし、通信システムが整っていない国に貢献することへの使命感がありましたね。

1970–1989

1970年代に入ると、2度のオイルショックによって世界経済は不況に陥りますが、自動車や電気製品、半導体などの産業が日本経済の持続的な発展を支えます。1970年代中期にはオフィスコンピューターや複写機、電卓などの普及が進み、1980年代に入るとエレクトロニクス技術を活用したオフィス・オートメーション(OA)が加速。これを機と捉えた旭電気は東京支店を構え、さらにオフィスへの設備投資が加速したバブル期には大阪本社を新築移転。社名も旭コムテク株式会社に変更しました。1985年に日本電信電話公社が民営化されると通信事業は競争の時代に。ショルダーホン、コードレスホン、多機能電話などが続々と登場し、電話通信は新時代に突入しました。

1970 創業社長 川口豊退任、新社長に川口凌太郎が就任
大阪万博開催
電電公社(現・NTT)がキャッチホンサービスを開始
1972 沖縄返還、浅間山荘事件、札幌オリンピック開催
1973 第一次オイルショック
電話FAXサービス開始
1974 コンピューター事業に参入、オフィスコンピュータ販売開始
1977 長期経営計画を提唱
1980 東京支店設立
1984 日本学術ネットワークJUNETの運用開始(日本におけるインターネットの始まり)
1985 バブル期突入、つくば科学万博開催
電電公社がNTTに民営化(通信自由化)、国内初の移動式電話(通称ショルダーフォン)が登場。
1988 「旭コムテク株式会社」に社名変更、本社新築移転(東大阪市長田)
1989 平成に改元、消費税実施、天安門事件、冷戦終結
は社会、情報通信分野の歴史

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大橋知樹さん
在籍:1981年–2011年(勤続30年) 
職種:営業
最終キャリア:旭コムテク取締役

私が入社した1980年代初頭は、ちょうどオフィス・オートメーションの時代が到来した頃でした。当時の旭電気は電気工事の技術者たちが屋台骨を支える一方、私のような営業の人間たちがコンピューターなど新しい販売展開を模索していた時期でした。時代とともに新しい技術に対応していく必要性が高まっていく中、社名も旭電気から旭コムテクへと変わり、私自身も技術者の先輩などと積極的にコミュニケーションを図りながら知識を常にアップデートし、お客様に先んじて提案をしていくことを心がけて働いていましたね。

私が入社した1980年代初頭は、ちょうどオフィス・オートメーションの時代が到来した頃でした。当時の旭電気は電気工事の技術者たちが屋台骨を支える一方、私のような営業の人間たちがコンピューターなど新しい販売展開を模索していた時期でした。時代とともに新しい技術に対応していく必要性が高まっていく中、社名も旭電気から旭コムテクへと変わり、私自身も技術者の先輩などと積極的にコミュニケーションを図りながら知識を常にアップデートし、お客様に先んじて提案をしていくことを心がけて働いていましたね。

1990–2009

1990年代は、東西ドイツ統一、ソ連解体など世界のダイナミックな変化とともに幕を開けました。日本ではバブルが崩壊し、「失われた10年」と呼ばれる戦後最大の不況の時代に。情報通信の分野では、女子高生の間でポケベルが流行し、やがてPHSや携帯電話が爆発的に広がります。Windows95とともにパソコン端末も普及し、ADSLや光回線などインターネット環境が整備されるとビジネスの世界でも急速にIT化が進みます。ネットワークPCが一般化したことでオフィス環境が劇的に進化する一方で、サイバーテロなどによって情報セキュリティの重要性も高まる中、旭コムテクのビジネスも時代に合わせて変化していきました。

1990 大阪中小企業投資育成(株)より出資 筆頭株主となる
1991 ソビエト崩壊、バブル崩壊、湾岸戦争が始まる
1992 日本初のインターネットサービスプロバイダがサービス開始
1993 日本電信電話(株)販売店契約締結
1995 阪神大震災、地下鉄サリン事件、WINDOWS 95が発売
PHSサービス開始
1997 携帯電話が急速に普及
1998 長野オリンピック開催
2000 技術部門を分離し、アイネットテクノ(株)設立(東大阪市長田)
2001 アメリカ同時多発テロ
インターネット回線を利用したIP電話が登場
2002 FIFAワールドカップ日韓大会開催
2004 経営革新計画承認企業となる「承認番号大阪府指令経支第1048-284号」
旭コムテク(株)新社長に川口仁志が就任
2005 建設業法(電気通信工事業)による建設業者登録 「国土交通大臣許可(般-16)第3402号」
プロバイダサービス事業(ShareLine)を開始
愛知万博開催
国内の携帯電話契約数が1億を突破
2008 リーマンショックによる世界同時不況
は社会、情報通信分野の歴史

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山下早苗さん
在籍:1981年–2013年(勤続32年) 
職種:営業~経営企画
最終キャリア:旭コムテク執行役員

私が入社した頃は女性社員が数名しかいない時代。電話口に私が出ると、男性の上司に代わるように言われることなどもザラで、やりたいことをやりたいようにする性格だった私は内外に多くの摩擦を生みました(笑)。1990年代には社内の制度やシステムを整備する仕事をするようになり、企業の成長のためには社員の労働条件などのベースを固める必要があることを学びました。また、管理職になるにあたって自ら会社に要望を出し、女子社員で唯一私服で通勤をしていたのですが、当時は物事の発想を変えたいという思いがありましたね。

私が入社した頃は女性社員が数名しかいない時代。電話口に私が出ると、男性の上司に代わるように言われることなどもザラで、やりたいことをやりたいようにする性格だった私は内外に多くの摩擦を生みました(笑)。1990年代には社内の制度やシステムを整備する仕事をするようになり、企業の成長のためには社員の労働条件などのベースを固める必要があることを学びました。また、管理職になるにあたって自ら会社に要望を出し、女子社員で唯一私服で通勤をしていたのですが、当時は物事の発想を変えたいという思いがありましたね。

2010–

SNSやスマートフォンが普及し、世界中どこからでもリアルタイムに情報の受発信が可能となり、ビジネスの世界でも時間や場所にとらわれない働き方が注目されます。人口減少社会に突入した日本では、生産性向上を見据えた「働き方改革」が推奨され、従業員が活き活きと柔軟に働けるオフィス環境が求められるようになりました。さらに2019年末から広がり始めた新型コロナウィルスは、テレワークやオフィスの移転・分散化を加速させました。移動通信システムの高速化、AIやVRなどのテクノロジーによってビジネス環境のさらなる変化が予測される中、2018年に社名変更したアンダーデザインでは、ICTや空間デザインの事業を通して、新ビジョン「あらゆる企業を挑戦のステージへ」の実践に取り組んでいます。

2010 建設業法(電気通信工事業)による建設業者登録 「国土交通大臣許可(般-21)第3402号」
アイネットテクノ(株)新社長に川口竜広が就任
2011 東日本大震災
2012 旭コムテクグループ新社長に川口竜広が就任
中期経営計画「REBORN PROJECT」発表
アイネットテクノ(株)本社 カスタマーサポート センター開設
2015 中期経営計画「ACT PRIDE PROJECT」発表
4Gサービス開始
2016 光アクセスサービス事業(Hikari UD)を開始
2017 本社プレミアムサービスセンター開設 (2018年10月グッドデザイン賞受賞)
2018 アイネットテクノ(株)を吸収合併し、アンダーデザイン(株)へ社名変更
クラウド事業、ヘルプデスク事業、空間デザイン事業を開始
名古屋オフィス移転(名古屋市中区錦)(2019年8月日本空間デザイン賞受賞)
中期経営計画「BEYOND HISTORY PROJECT」発表
2019 令和に改元
2020 東京オフィス移転(新宿区下落合)
コミュニケーションラウンジ開設(大阪オフィス6階)
世界保健機関(WHO)が新型コロナウイルスのパンデミックを宣言、日本政府が非常事態宣言を発令
5Gサービス開始、PHSサービス終了
2021 Case Study Studio事業開始
中期経営計画「TIME MACHINE PROJECT」発表
東京オリンピック開催
2024 名古屋サテライトオフィス開設(名古屋市中村区亀島)
中期経営計画「TRANSCEND TIME & SPACE PROJECT」発表
新「パーパス・ミッション・ビジョン・バリュー」発表
は社会、情報通信分野の歴史

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磯田俊孝さん
在籍:1973年–2017年(勤続44年) 
職種:システムエンジニア~営業~総務
最終キャリア:旭コムテク取締役常務

入社以来SEの仕事に長く従事した後、営業職を経て総務に異動となり、それ以来会社全体をまとめていくことに尽力してきました。2012年に川口竜広新社長が就任してからは、次々と出てくる新しい発想に驚かされましたし、オフィスひとつとっても従業員の働く環境のことをよく考えてくれていると感じます。会社は大きく変わりましたが、一方で自分が入社した当時にあった自由気ままな雰囲気はいまも残っているように思います。これからの世代にはそれぞれの価値観を大切にしながら、100年企業を目指して挑戦を続けてもらいたいですね。

入社以来SEの仕事に長く従事した後、営業職を経て総務に異動となり、それ以来会社全体をまとめていくことに尽力してきました。2012年に川口竜広新社長が就任してからは、次々と出てくる新しい発想に驚かされましたし、オフィスひとつとっても従業員の働く環境のことをよく考えてくれていると感じます。会社は大きく変わりましたが、一方で自分が入社した当時にあった自由気ままな雰囲気はいまも残っているように思います。これからの世代にはそれぞれの価値観を大切にしながら、100年企業を目指して挑戦を続けてもらいたいですね。