アンダーデザインOB・OGインタビュー 磯田俊孝さん、山下早苗さん

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先日リニューアルされたアンダーデザインのコーポレートサイトでは、70年を超える会社の歴史を、社会の動きとともに振り返るヒストリーページを制作しました。それに合わせ、アンダーデザインを支えてきたOB・OGへのインタビューを行い、会社の歩みや当時の仕事などについて振り返っていただきました。

 

磯田俊孝さん

  • 在籍:1973年~2017年(勤続44年) 
  • 職種:SE~営業~総務
  • 最終キャリア:旭コムテク取締役常務 

 

山下早苗さん 

  • 在籍:1981年~2013年(勤続32年) 
  • 職種:営業~経営企画室
  • 最終キャリア:旭コムテク執行役員 

 

—旭電気に入社した経緯を聞かせてください。

山下:旭電気は1949年の設立で、私の生まれ年と同じだったんです。また、前職でコンピュータ関連の情報機器課というところで働いていたのですが、ちょうど同じ名前の部署が募集をしていたこともあって入社しました。土曜日が休みの会社というのもポイントでしたね。

磯田:私は兵庫県の日本海側の生まれで、漁師の家の5人兄弟の末っ子として生まれました。これからコンピュータが始まるという時代だったので大阪電子専門学校というところに進み、学校の先生の薦めで当時本町にあった旭電気の試験を受けて、入らせてもらうことになりました。

山下:時間差はありますが、ふたりとも入った部署は同じ情報機器課でした。当時の情報機器課は工事部隊、SE部隊、営業部隊に分かれていて、私はちょうど会社を辞める女性と入れ替わりで、その方の仕事を引き継いで工事の図面に数字を入れたり、事務方として請求書を出したりという仕事をしていましたね。

磯田:私は入社してから電話工事や保守の仕事を1年半ほどして、いよいよこれからコンピュータ時代が本格的に到来するというタイミングでNECに派遣され、そこで初めて営業の仕事をするようになりました。でも、まったくものにならなかったので、もともと勉強していたコンピュータの知識を活かし、SEとしてお客さんのシステムのプログラムを書いたりするようになりました。

 

—コンピュータのニーズが広がりつつあった当時、お仕事は相当忙しかったのではないですか?

磯田:そうですね。当時はまだオフコン(事務処理に用途を絞った小型コンピュータ)を使っていたのでプログラムをつくるのにも結構時間がかかるし、かなり忙しく働いていた記憶があります。残業もたくさんしましたね。お客さんの多くは中小企業だったのですが、直接経営者の方とやり取りをしてソフトを収め、喜んで頂ける仕事にはやりがいがありましたね。

山下:当時は、社内にいながら電話対応を中心に営業のような仕事もしていたのですが、まだ女性社員が数名しかいない時代だったので電話口に私が出ると、男性の上司に代わるように言われることもザラでした。私はやりたいことをやりたいようにする性格だったのでたくさん摩擦を生んだし、社内外の人から煙たがられる存在だったと思います(笑)。また、転職組だった私は前の会社での経験もあるので、自分の中での「こうあるべき」というものが強く、ギャップも色々ありましたね。

磯田:僕が入った頃はまだ数十人規模の会社で、山下さんが入ってからもしっかりした企業の規則やルーティンのようなものはなかったですからね。

山下:伝票などを探して引き出しを開けると、書類がファイリングされずにグチャグチャに入れられていたり、時には歯ブラシまで出てきたり(笑)。実は最初の1ヶ月で、ここではやっていかれへんとギブアップしそうになったのですが、気にかけてくれる先輩のおかげで一年だけがんばってみようと思うことができて、そこからは自分らしくやればいいんだと割り切って仕事に取り組めるようになりましたね。

 

—おふたりにとって転機となった仕事はありますか?

山下:1990年代半ばくらいから、社内の制度やシステムを整備する仕事をするようになったんです。川口凌太郎前社長は、会社の制度を新しい時代に対応していくものにするためによく学ばれていて、少しでも力になれればと思って情報収集をしたり、色々勉強をしました。この仕事を通じて、社員の労働条件や行動指針などのベースを固めることが企業の成長には不可欠なのだと学びました。また、管理職になるにあたって、自ら会社に要望を出し、女子社員で唯一私服で通勤をするようになったのですが、当時は物事の発想を変えたいという思いが強かったですね。

磯田:僕は長らくSEの仕事をした後、経営企画などを経て総務に移り、ちょうどその頃に就任された川口竜広社長にも色々教えていただきながら、会社全体をまとめていくことに尽力するようになりました。新社長になってからは大きく会社が変わった印象がありますね。次々と出てくる新しい発想には驚かされましたし、オフィスひとつとっても従業員の働く環境のことをよく考えてくれていると感じます。竜広現社長にせよ、会社が急成長し、しんどい時期も乗り越えてきた凌太郎前社長にせよ、時代の変化に対する舵取りが上手くできていたのかなと思いますね。

 

—この会社で働いていた期間はご自身にとってどんなものでしたか?

磯田:僕は44年間この会社で働きましたが、その途中で何回も辞めようかと考えた時がありました。SEの仕事をしていると、大きな企業の情報システム部の方からお誘いを受けたりすることも多いのですが、やっぱり自分にとっては人とのつながりが大切でしたし、目の前にいた同僚の存在があったからこれだけ長く務めてこられた。非常に充実した44年間だったなと思いますね。

山下:いまになって思うと、もう少しバランスを考えて働いても良かったかなと。もう本当に仕事にどっぷりという働き方だったのですが、退職して母を亡くしてからもう少し家族のことも考えるべきだったなと思うところがあって。そのような少しの後悔こそありますが、社内転職のように次々と新しいことに取り組み、昼食後の時間も勉強に充てるなどフルで働き、非常に学びの多い32年間でしたね。

 

—今後のアンダーデザインに期待することを教えて下さい。

磯田:最近の若い人たちの価値観はさまざまですが、自分が入社した当時にあった自由気ままな会社の雰囲気というのはいまでも残っているように思います。これからの世代には、それぞれの価値観を大切にしながら、100年企業を目指して挑戦を続けてもらいたいですね。

山下:人間の細胞が次々と生まれては消えていくように、会社というのも事業の軸や食い扶持さえ明確にしていれば、細胞分裂を繰り返してどんどん変わっていっていいと思うんですね。私みたいな人間でも弾かれながらも生き延びていくことができたわけですし、まったく異なる考え方を持つ人同士が交ざり合うことによって、会社も新しい生命体に変わっていってほしいなと思いますね。