アンダーデザインOBインタビュー 松田清治さん

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先日リニューアルされたアンダーデザインのコーポレートサイトでは、70年を超える会社の歴史を、社会の動きとともに振り返るヒストリーページを制作しました。それに合わせ、アンダーデザインを支えてきたOB・OGへのインタビューを行い、会社の歩みや当時の仕事などについて振り返っていただきました。

 

松田清治さん

  • 在籍:1962年~2011年(勤続49年) 
  • 職種:施工
  • 最終キャリア:アイネットテクノ社長 

 

—入社当時のお話を聞かせてください。

実は入社当時は、旭電気(現アンダーデザイン)が何をしている会社なのか知りませんでした。学校から紹介されて、先輩も働いているということで面接を受けて入社することになったのですが、その時はまだ電気通信関係の会社だとしっかり認識していなかったんです。入社から2年間は、お客さんから注文されたさまざまな電気通信工事のための材料を配達する仕事をしていて、3年目から施工の現場に出るようになりました。もともと電話に交換機があることすら知らない状態で入社した私ですが、現場に出るようになってこの仕事の面白みがわかってきたという感じでしたね。

 

—当時の旭電気はどんな雰囲気でしたか?

僕が入った頃は35人前後の従業員がいて、その大半が若く、やる気に満ち溢れていましたね。当時は、家電の販売や電子部品の取り扱いなどを始めたり、色々なことに挑戦しながら会社にとって何が良いのかを模索していた時代だったかと思います。メーカーからの仕事もあれば、百貨店や商社など大手企業と直接やり取りするような仕事もあり、現場はとても忙しかったですね。工事の仕事は会社が休みの時しかできないケースも多く、休日や夜間に働くことも多かったですね。

 

—具体的にはどんな仕事だったのですか?

23歳の時にメーカーからの仕事でタイに電話交換システムを入れることになって、先輩とふたりでタイに1年ほど駐在したのが最初でしたね。アンダーデザインには旭友会というものがあり、すでに100回を超えているのですが、実は当時一緒にタイに行った先輩と私が現地でゴルフを覚え、休日にラウンドをしていたことがきっかけで生まれたものなんですよ。その後も、国際交換機の仕事でしばしば海外に行くようになり、中米のニカラグアという国では、ゲリラの真っ最中で仕事ができなくなってしまったこともありました。荷物ひとつ持って大使館の車に乗って白旗を掲げ、ゲリラの検問所を抜けて空港までたどり着き、軍用機で命からがら海外に逃がしてもらいました。

 

—それは大変な経験をされましたね。

その時は本当に大変でしたが、いまにしてみれば良い思い出です(笑)。発展途上国に行って、国と国をつなぐ新しい通信システムを使えるようにする仕事は、その国に貢献している実感が持てましたし、やりがいは大きかったです。いまでは通信システムというのは水や空気のように当たり前のものになっていますが、それだけ大事なインフラを支えている使命感のようなものは常にありましたね。阪神淡路大震災の際には、携帯電話の基地局になっていたビルが傾き、その屋上にあるシステムをまた動かさないといけないということで、大変な思いをしながらその仕事に取り組んだ思い出もありますね。

 

—2000年以降は、旭コムテク(現アンダーデザイン)から施工部隊を分社化したアイネットテクノの社長を務められました。

分社化の背景にはさまざまな事情があり、会社の生き残りをかけた判断でした。だからこそ、やはり責任感は強かったですし、会社として利益を上げて社員を食べさせていかなくてはならない。その中で、会社をもっと大きくしていきたいという思いや、通信だけではなくもっと色々なことができる施工会社にしたいという夢を持って働いていましたね。

 

—49年間勤務された会社は、松田さんにとってどんな存在ですか?

いまよりもずっと規模が小さい時代からお世話になってきた会社ですし、自分の家のようなものでしたね。私自身は、若い頃にこの仕事の面白さを感じることができたからこそ、もっと仕事をしたい、もっと会社を大きくしていきたいという気持ちで働き続けることができました。だからこそ、いま働いている社員の人たちにとっても、仕事というものが夢や希望が持てたり、面白さや楽しさが感じられるものであってほしいですね。私も現場を離れてすでに30年近く経ち、時代は大きく変わっていると思いますが、もっとこんなことがしたい、ああいうことをやってみたいという意欲や情熱がなくならない限り、会社は存続していくのではないかと思っています。